学校概要
第三砂町小学校 校章
第三砂町小学校 校歌
校歌をお聴きいただけます>>>第三砂町小学校 校歌
※「ファイルが見つかりません~」と表示される場合は、
右クリックでダウンロード後、再生してください。
第三砂町小学校 沿革
■■ 第三砂町小学校の創立 ■■
昭和5年4月2日 | 初代 根本文蔵校長着任 |
昭和5年5月1日 | 砂町小より663名、二砂小より180名、計843名の児童と19名の教師を迎えスタート |
昭和5年5月27日 |
海軍記念日にあやかって創立記念祝賀式を開き、開校記念日とした。 砂町の学習院といわれ、当時としては洋風・木造平屋建てのモダンな建物でした。 |
●当時の様子●
小松菜・すいか・きゅうり・なすなどの野菜の畑が多く、根深ねぎが特産、10数件の金魚の養殖場があり、今の元八幡通り(4丁目団地からいなり団地に通じる道路)は川が流れていたが、昭和7年頃に埋め立てられ、道路になった。学校の北側を流れる仙台堀川は砂町運河として大正時代に作られ、海苔の養殖・あさり・はまぐり、荒川ではしじみがとれた。
●後援会●
創立と同時に作られた。父母・先生・地域の有志が会員、会費は毎月十銭。海水浴の施設を作り、児童の体力向上を図り、運動用具を購入し、机やいす、備品をそろえるなど、物質的援助を行った。
●同窓会●
昭和6年3月第一回卒業生男子40名、女子51名。現在も三砂小の卒業生により続いている。
●砂町海水浴場●
東京都下水処理場の西側にあり、児童に無料バスが出されていた。青年団が管理。はまぐりがとれた。古式泳法を習っていた。
■■ 戦前の様子 ■■
昭和6年6月1日 | 第2代 小林松男校長着任 |
昭和6年 | 講堂と平屋教室の増築 |
昭和7年10月1日 | 東京府東京市第三砂町尋常小学校と改称 |
昭和7年 | 城東区となる。北砂町と南砂町に分かれる。 |
昭和9年 | 第四砂町小学校開校 |
昭和11年 | 24学級、児童1419名 |
●増える工場●
昭和14年には50もの大きな工場が南砂町にできた。城東地区全体では、2000以上あった。
●馬車屋さん●
荷馬車輸送が盛ん。昭和10年頃には、800頭の馬がいた。
●人口の増加●
昭和7年…15万人→昭和10年…17万人→昭和14年…18万人→昭和15年…深川地区と合わせて42万人
●伊勢神宮参拝と修学旅行●
昭和17年が最後となったが、文部省の方針により6年生は伊勢旅行と決まっていた。2泊3日で5円。夜行列車で行き帰さ、おこづかいは2円まで。
●子供たちの服装●
昭和7、8年頃は木綿の着物が普通。洋服は特別の時のみ。昭和13、14年頃にはほとんどが洋服。
■■ 戦争中の様子 ■■
昭和15年4月1日 | 東京府東京市第三砂町国民学校と改称 |
昭和18年5月1日 | 第3代 所愛校長着任 |
昭和18年7月1日 | 東京都第三砂町国民学校と改称 |
昭和18年 | 東京都城東南砂町となる |
●勤労奉仕●
工場の町だった砂町。太平洋戦争で子供の勤労奉仕が始まった。12、13才の少年・少女が、兵器を造る工場で働く。
●昭和16年 国民学校令●
修身の教科書には天皇を中心に国民が団結しなければならないとあった。毎月、輿亜奉公日が決められ、お弁当は梅干し1つの日の丸弁当だった。防空頭巾を持って歩き、今のように集団登校だった。体育は軍事教練となり、男子は剣道や銃剣術、女子はなぎなた。防空壕に避難する訓練。
●先生も軍隊に行く●
三砂小の先生方も数名が招集された。
●集団疎開が始まる●
昭和19年8月、山形県高湯(蔵王)へ。帰郷は、昭和20年3月2日。
●東京大空襲●
昭和20年3月10日、三砂小も全焼した。
●帰郷●
7月になると、残っていた子供たちを集めて、元八幡神社の社務所を借りて学校を再開。昭和20年8月15日の終戦で疎開児童も戻り、焼け跡で生活する人もあり、子供の数が増えた。
■■ 戦後復興の時代 ■■
昭和20年7月 | 元八幡神社社務所で授業会 |
昭和21年3月31日 | 第4代 山崎堺校長着任 |
昭和21年4月1日 | 元兵舎サクションを仮校舎とする |
昭和22年4月1日 | 東京都江東区第三砂町小学校と改称 |
昭和22年 | 江東区となり、深川区と城東区が一緒になる |
昭和23年9月1日 | 第5代 吉田敏忠校長着任 |
昭和23年 | 新しい校舎ができた(平屋建て) |
昭和24年7月14日 | 第三砂町小学校PTA結成 |
昭和24年8月31日 | キティ台風襲来(学校も水に浸った) |
昭和25年~昭和29年 | 二階建ての校舎に増築と改築(台風の時の避難所になった) |
昭和20年代後半 | 南砂遊園地開園、新しい工場ができた(製鉄所、練炭工場) |
昭和27年2月 | 都教育長研究指定校発表会(国語) |
昭和28年9月29日 | 都教育庁研究指定校発表会(作文指導) |
昭和29年 |
児童数1742名(1学年8クラス) 教室が足りず午前組と午後組に分かれて授業が行われた 第五砂町小学校ができて分かれた(児童773名が移った) 昭和28年7月22日から8月20日まで南砂省のプールを使用 |
昭和30年代 |
野球が盛んになり、南砂チームが城東防犯野球大会で優勝 元八幡神社の御神輿復活 |
昭和30年4月5日 | 西側校舎に第三砂町中学校開校(7月移転) |
昭和30年10月1日 | 第6代 福田豊校長着任 |
昭和34年 | ビニールプールを購入 ※この年、新葛西橋完成 |
昭和35年1月21日 | 都・区研究協力校発表会(放送教育) |
昭和35年4月1日 | 第7代 中群節次校長着任 |
昭和38年3月4日 | 屋内体育館完成 |
昭和40年4月1日 | 第8代 市原幸市校長着任 |
昭和41年3月25日 | 鉄筋校舎9教室竣工 |
昭和42年8月31日 | プール完成 |
昭和42年11月7日 | 区研究協力校発表会(音楽・社会) |
昭和43年4月1日 | 第9代 川上弓雄校長着任、幼稚園が併設された |
昭和44年 | 校長室と給食室ができた ※この年、6年かけた東西線開通 |
昭和46年11月30日 | 区研究協力校発表会(国語・算数・理科) |
昭和47年 | 鉄筋校舎4教室竣工 増築を繰り返す |
昭和48年3月1日 | 都研究奨励費を受ける |
昭和48年4月1日 | 第10代 長峰信男校長着任 |
昭和48年11月22日 | 校旗再生 |
昭和51年 | 第二東砂小や南砂西小ができた ※6月には、都立江東図書館誕生 |
昭和53年 | 夏休みに校庭の改修 |
昭和54年2月9日 | 区研究協力校自主発表(三砂小の教育) |
昭和54年4月1日 | 第11代 内山嘉一校長着任 |
昭和54年11月11日 | 創立50周年式典挙行 |
●工場の移転●
同時に子供たちが転校していった。工場の移転後、住宅地に変わる。
●都営住宅の高層化●
都心での住宅難。緑団地、いなり団理、南砂公園、野球場完成。
高層住宅が増えて、児童数が増えるばかりとなり、学区域が変更された。
平成12年4月1日 | 第17代 大塚恭一校長着任、郵政省マルチメディア事業参画 |
平成13年2月 | 校舎の建て替えのためプレハブへ移転 |
平成14年8月 | 新校舎へ移転 |
平成14年10月 | 新校舎落成式典を実施 |
平成14年11月 | 教育委員会研究協力校発表(生活科・総合的な学習の時間) |
平成16年4月 | 第18代 三村幹枝校長着任 |
平成16年11月17日 | 開校75周年記念式典 |
平成18年6月23日 | 研究発表会 「ジャンプ・ザ・サン砂小!」 |
平成19年4月1日 | 第19代 水野崇人校長着任 |
平成19年6月 | 普通教室冷暖房機設置 |
平成19年12月 | コンピュータ室新機種導入 |
平成20年4月 | 江東区教育課題研究指定(教科担任制) |
平成21年11月 | 開校80周年記念式典挙行 |
平成21年12月 | 江東区教育課題研究発表会(教科担任制) |
平成23年4月1日 | 第20代 中村和弘校長着任 |
平成24年4月 | 東京都教育委員会人権尊重教育推進校指定 |
平成25年12月 | 東京都教育委員会人権尊重教育推進校発表 |
平成26年11月 | 演台カバーを後援会・同窓会より寄贈 |
平成26年11月 | 開校85周年記念集会 |
平成27年4月1日 | 第21代 佐藤孝行校長着任 |
平成29年11月22日 | 江東区教育委員会研究協力校研究発表会(体育) |
平成30年4月1日 | 第22代 林みどり校長着任 |
令和元年11月30日 | 創立90周年記念式典挙行 |
令和3年4月 | 一人1台タブレット(Chrome book)配布 |
令和3年10月22日 | 江東区教育委員会研究協力校研究発表会(国語) |
令和5年2月11日 | 東京都教育委員会児童・生徒等表彰(代表委員会) |
令和5年10月 | 金管鼓笛隊の新しいボトムスを後援会、同窓会、中央町会、PTAより寄贈 |
令和6年4月1日 | 第23代 淺野努校長着任 |
更新日:2024年06月18日 07:21:08